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鈴木きらきらピアノ教室 鈴木弘美です。 ピアノ・音楽でHappy な人生を…♡ 【鈴木きらきらピアノ教室】 ピアノコース 英語deピアノコース ピアノde脳活コース  ホームページはこちら https://hiromi0701suzu.jimdofree.com/?fbclid=IwAR3C96P07-KbNZyRFz49AGw8GofzDuYTlureFq_R7nx8rE4GR9gR6BGMHeU お問い合わせはこちら https://hiromi0701suzu.jimdofree.com/%E3%81%8A%E5%95%8F%E3%81%84%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B/?fbclid=IwAR2_AtnwxLM0YqKn8qq6pTRu7sh2CgqyaaimjnVW7-0HTQnT_ybvbxdfrYc Facebookページはこちら https://www.facebook.com/yamanashipiano/ アメブロはこちら https://ameblo.jp/yuriehiromi7/ Line @はこちら https://line.me/R/ti/p/%40yyc0690k <a href="https://line.me/R/ti/p/%40yyc0690k"><img height="36" border="0" alt="友だち追加" src="https://scdn.line-apps.com/n/line_add_friends/btn/ja.png"></a>

経歴・資格

【3才10ヶ月から・・・】中流家庭の二人姉妹の長女として生まれ両親の愛を注がれて育った。「つまらぬおもちゃを与えるよりピアノを与えよう」と言う両親の教育方針のひとつから保育園に入っていたヤマハ音楽教室で3才10ヶ月からグループレッスンをスタートする。 【まんまと両親特に母の策略にはまっていった私】 毎日、母が付き添ってくれて練習。弾けるまでピアノに向かい合った。弾けなくて悔しくて泣いていた。全部弾けたときは、嬉しくて泣いた。 学年を超えたグループ編成だったが、その中で私は最年少。それでも、落ちこぼれることなくグループについていけていた。子供ながらに自信をつけて行く。 【ピアノの先生が義理の叔母になる!】 なんとヤマハ音楽教室の先生が・・・母の弟と結婚し義理の叔母になった。 節子叔母は、車の運転ができなかった母と私をレッスンが終わってから母の実家まで送ってくれ、そこで叔父と恋に落ちたらしい。 この素敵な出来事は・・・小さいながらにピアノの先生への憧れを身近に感じた瞬間だった。 【両親の起業で・・・ 】 このことで甲府市から御坂町に引っ越す事になり新しいピアノの先生が見つかるまで2ヶ月ほどブランクがありピアノの先生も変わった。自分は凄くピアノが弾けると思っていたが…すらすら弾けると思いきやたどたどに。ピアノの先生はそうでなかったが自分自身がこの現実に動揺し、ショックを受けてしまった。 小学校入学し田舎で学年1クラス23人。ピアノを弾けるのは私だけ。2年から伴奏の役割などをするようになり、弾けないとこれまた悔しくて夜中まで練習。なんと練習のしすぎで怒られた。 【ライバル出現】 今までライバル不在で鼻が伸びていた自分。中学になり一気に6クラスに。当然ピアノを弾ける子もいて急にライバルが出現。 たまたま仲良くなり、その後も親友となった友が一番ピアノが上手く自分は2番手の位置に。 好敵手とはまさに字のごとく2人で切磋琢磨しながら伴奏の役割も分け合い充実した中学校生活を送る。親友は県下一有名なピアノの先生に習っていた。側で見ていても気の毒になるような厳しいレッスンに耐えていた。 私は、音大を卒業し教会をされているピアノの先生と そのご主人の牧師様に(多分、音大は卒業されてい)。慈愛に満ちた人間的にも尊敬できる先生方だった。ピアノが嫌になることはなかった。 【高校受験】 高校では陸上部へ。音大受験もなかなか決められずに、悩んでいた。 親友は、話も上手話をしっかり聞いてくれた。ピアノも上手でパッと弾けた。ピアノでは、勝てないなとなんとなく感じていた。性格も良く、いいことばかりでなく本音でも話してくれた。 そんな彼女が音大受験を諦めると打ち明けてくれときは本当にびっくりした。のちにピアノ教師として考えさせられる出来事だった。 【大学時代】 専門性の高い先生につかないと音大にはいってはいけないという思い込みができてしまっていた。そんなことから、知らないうちに劣等感が増してきて、周りと自分を比べてしまうことが増えていった。 その時に自分はどうするべきか考え、 音大受験をやめ、一般大学に進む決心をする。 しかし、ピアノをやめるという選択肢はなくピアノは、ご飯を食べるのと同じ感覚だった。 中学の時より、海外に憧れ、英語が大好きで、得意だったこともあり英文科を目指す。急に方向転換。受験は厳しく、何校も受けるが最終的に英文科の私立に入る。 失意の中、大学の寮へ。ところが友人関係に恵れ、楽しい学園生活が! まさかの門限破り。新宿へディスコに行くも、時間ギリギリに帰宅。まさかの5分間に合わず焦って同部屋の友人に裏工作を頼むものの失敗してバレてしまい重い懲罰が。数ヶ月の外泊禁止令 電話当番 草むしり トイレ掃除!『たった五分でひどすぎる』とシンデレラ真っ青のこれも良き思い出に! ピアノとのご縁も続きなぜだか練習に困ることはなかった。なぜだかピアノはずっと身近に存在してた。 【就職】 就職は、英語を活かした会社に入り、海外との取引をすることに。業績悪化で倒産!やはり自分にはピアノか?という思いがフツフツと沸き起こり、1年頑張ってグレード習得。勿論、先生にも師事し再びピアノ・音楽を勉強。東京まで学びに行く。某音楽教室ピアノ講師として7年間勤務。 のべ50人の生徒さんと出会う。 【結婚 子育て 自宅ピアノ教室開業】 27歳の時に両親の反対を押し切って(笑)・・・農家の一人息子と結婚。その後、娘3人に恵まれる。子ども3人ともなると・・・超多忙。実家の母・義理の父母・主人に子どもの面倒をみてもらいらがら・・・ なんとか自分の居場所であるピアノ講師を続ける事が出来た。 尊敬する中学校の恩師に勧められていた公立中学校の英語教諭にもチャレンジ・合格。なんと37歳の時だった。期間採用教員として・・・クラス担任。知的障害クラス担任。 15年勤め上げた。土日には自宅でピアノ教室を続けていたので・・・覚悟して始めたこととはいえ・・・ヘロヘロだった。 この頃より海外にも足繁く行くようになった。ヘロヘロとは言え、海外となると俄然元気に 【現在】 ピアノ講師。公立学校勤務との両立。3人の子育て。農家の嫁としての苦悩(笑) 嫁姑のわだかまり(汗)等など様々なことを経験しながら常に自分とは何か?自分が出来る事は何か? 問うてきた。 紆余曲折あるものの全ては我が血となり肉となり気がつけば・・・いつも身近にピアノがあり 厳しい先生についたり 音大に行かずとも 今はピアノ教室を経営している。今まで出会った・・・のべ200人の生徒さん達に感謝しながら・・・日本中に・・・世界中に・・・ピアノをこよなく愛する人々で溢れて欲しい!おじいちゃん♡おばあちゃん♡になっても・・・ピアノをポロンポロンと奏でて欲しい!ピアノを通じて愛に溢れる地球になって欲しい! ・・・という想いで・・